鄭承博文学論
安 宇 植
鄭承博著作集第一巻『裸の捕虜』
林 浩治
鄭承博著作集第一巻『裸の捕虜』
川村 湊
鄭承博著作集第二巻『松葉売り』
磯貝治良
鄭承博著作集第六巻『ゴミ捨て場』

  

    逃亡者の美学    安 宇 植


 あれはたしか、鄭承博が洲本市の大野に仕事場を設けて独り暮らしを始める前の、一九七二年か七三年の春だったような気がする。たまたま洲本の本宅――いや、いまとなっては旧宅というべきか――へ彼を訪ねていた私は誘われるままに、連れ立って遠出のドライブにでかけたことがある。十歳近くも年長の彼に運転を任せてその話し相手をするという二人きりのこの気儘な旅は、帰宅の予定も未定ならばドライブのコースも彼に任せっ放しというものであった。けれども、初めからそのつもりでいたのか、フェリーで紀淡海峡を渡って車を和歌山へ上陸させると、彼は紀勢線沿いに紀伊田辺を経て新宮へ抜け、そこからさらに奈良の五条方面へ方向を転じて大阪へでるというコースをたどった。その間に、高野山や熊野、さらには勝浦や鯨で名高い太地などへ立ち寄ったり、枯木灘を眺めたり、湯の峰その他のひなびた温泉に浸かって愉しんだりしたのはむろんである。記憶に間違いがなければ、大野に仕事場が設けられてからもこれと似たりよったりのコースをたどって、私は二度ほど彼の運転で紀州へのドライブをしている。そして新宮では、その頃めきめき売り出し中だった中上健次の、仲町などいわば彼の「路地」の世界にまで足を運んだことはいうまでもない。

『鄭承博著作集』第一巻に収録されている、彼の作品の中ではもっとも自伝的な色合いの濃厚な未完の長編「富田川」と、その連作といってよいはずの「山と川」に目を通しながら、たびたび私の脳裡に蘇ったのはそれらの旅の先々で彼が話してくれたいくつもの思い出話だった。たとえば、少年時代の彼が身を寄せていた朝鮮人の飯場と日本人の飯場とが血を見るような大喧嘩をしたこと、そしてその日本人の飯場には、のちに『月山』の作家となる若き日の森敦が関わっていたこと、あるいはまた、大阪で水平社運動を指導していた栗須七郎宅で書生暮らしをしていた頃は、二十歳にもなっていない若さでしばしば、南海電車の難波駅頭での辻説法に立たされたことなどなど。こうしたさまざまな思い出話を聞かされたばかりでなく、紀伊田辺では、当時はまだ田辺市役所の総務部長とかの要職にあったと記憶している、栗須七郎の娘婿? ほかの人々に引き合わされたこともある。

 鄭承博との旅がきっかけでいっとき紀州を歩くことに病みつきになった私は、その後も機会を見つけては大阪に住んでいた中学校時代からの親しい友人を誘って、何度か同じコースをたどる車の旅を重ねたものであった。それにしても、鄭承博はなぜ私を紀州への旅に誘いだしたのだろうか。恐らく一つには、『川柳阿波路』誌に連載してきてその頃中断していた、処女作でもある長編「富田川」をどうにかして書き続けたい気持ちと、もう一つは、私にその富田川を初めとした彼にとってゆかりの深い土地を見せたい気持ちとがない交ぜになって、心を突き動かしたためであったろう。『川柳阿波路』誌第八号から連載を始めた「富田川」は、一九六八年七月発行の同誌第三十七号に載った三十回を最後に中断したままだった。それからも彼が「富田川」を書き継ぎたい気持ちをいささかも失っていなかったことは、それまでの主人公の名が「ボー、テーヤン、てい君」などから「張一」に変わったとはいえ、疑いもなく内容のうえでは「富田川」の延長線上に位置するはずの連作「山と川」からもいえる。いや、何よりも、私を誘いだした紀州路への旅で、少なからぬ時間を割いて語り合った話題の一つが、「富田川」に描かれている内容に関わることだった事実がそれを教えている。

 そもそも鄭承博は、どうして紀州の中でも「富田川」や紀伊田辺を初め彼と関わりが深かった世界を私に見せたかったのだろうか。少年の頃から人並み以上に辛酸をなめながら成長したことを私にひけらかすためであったろうか。もとより、そんなつまらない理由からではなかった。端的に言えば十歳前後の幼さで渡日してきた彼が、肉体的にも精神的にも成長する土台をつくってくれたふるさとを、私に見せたかったのである。紀州路を旅する道すがら、十歳にもならない少年の身で玄界灘の荒波を渡って日本へ渡航してきた動機についても、鄭承博は私にたびたび話して聞かせてくれたものである。略年譜によると鄭承博は叔父を頼って単身で渡航してきたことになっている。けれども、栗須七郎宅で一緒に書生暮らしをした金達亮のちの金田達亮と、ほかにもう一人、同郷人でしかも幼な友達の李容極とが彼とともに渡航してきたと彼は私に語っている。たまたまその李容極と私が、かつては職場を同じくした時期もあったことが判明して、おのずと彼ら三人の渡日の動機にまで話題が及んだわけだったが……。

 渡航してきたのが金達亮と李容極との三人だったのか単身だったのかは別として、略年譜にあるように鄭承博が叔父を頼って来たことだけは疑いを入れない。けれどもその内実は、渡航の旅費をどのようにして工面したのか、また「富田川」の書きだしにある「昭和七年八月二十日の夕刻、紀伊線田辺駅に」降り立つまで、関釜連絡船の旅を含めて、たどたどしい日本語を頼りに、見ず知らずの土地へ足を踏み入れてどんな体験をしたのか、何を感じたのかなどといったことについてはどこにも書かれていないようだが、ありていにいえば住み慣れた郷里ばかりか、父母や兄弟まで捨てての家出であった。彼自身の表現を借りていうならば「逃亡の人生」(「略年譜」)の始まりである。

 こうして鄭承博の「逃亡の人生」は、「昭和七年」つまり一九三二年に始まり、四六年の春に手を取り合って大阪へ駆け落ちして結婚した中野小静がこの年の秋に、妊娠して出産準備のために両親の住んでいる淡路島へ舞い戻る日までほぼ十五年間続くことになる。それにしても、くどいようだが彼は何をしに日本へ渡航して来たのだろうか。「富田川」の中で彼が幾度となくテーヤンに語らせているように、その理由は月並みである。日本の学校で学んで立派な人物になるためであった。したがって彼の並々ならぬ向学心が、住み慣れた郷里ばかりか父母や兄弟まで見捨てて家出をさせたのである。

 ということは、鄭承博は幼い時分からことのほか上昇志向が強かったということにもなる。父母や兄弟にも無断で、十歳前後の少年がたった一人で、叔父の住所を書いた一枚の紙切れを頼りにはるばる和歌山県の紀伊田辺までやってきたくらいだから、そういっても可笑しくはないだろう。けれども当時の彼からすれば、それも無理からぬことであった。郷里である慶尚北道安東郡の風土が、彼の上昇志向を育てたのである。

 これまで鄭承博は、たびたび私に、「陶山書院の管理人の家に生まれた」と語っている。また、彼の郷里の安東への旅にも何度か誘われたことがある。あいにく今日まで、それを実現する機会に巡り合うことはできなかった。が、安東大学が新設されたこともあって、近ごろそこを訪れる観光客がとみに増えたと噂されている陶山書院といえば、十六世紀の安東郡が生んだ朝鮮儒学の最高峰といわれている退渓・李滉ゆかりの書院であり、李退渓が後進に学問を教えた道場でもあれば、彼自身の学問の研鑽にも励んだ由緒ある建物である。李退渓はまた日本とも、浅からぬ関係にあった。「東方の小さな朱子」とも謡われた彼の儒教思想は、徳川幕府の学問所における主流をなしたにとどまらず、西欧的な文明開化をめざして突っ走っていた明治維新後の社会でさえも、「教育勅語」などを通して日本の国民に大きな影響を及ぼしてきたのである。

 このような李退渓のお蔭で、安東郡はいまでも韓国では指折りの儒教的、いや、さまざまな封建的しきたりの影響が色濃くその陰翳をとどめている地域として知られている。このような安東郡の片田舎で生まれ育ち、性格形成期まで過ごした鄭承博が、そうした環境に影響されぬはずはなかった。「富田川」の中でも言及されているように、日本へ渡航して来る前の彼は、普通学校と呼ばれた小学校で初めて学校教育を受けるまでに、書堂(ソダン)と名づけられていた寺子屋へ通い、今様にいえば幼児教育として、きわめて封建的なしきたりのもとで訓導(フンド)(師匠)から千字文を教えられていたのである。彼の渡航と前後する、一九二〇年代の幕が下りつつあった頃ですらも。そればかりではない。魯迅を初めとする中国の若い知識人らがそうであったように、当時の朝鮮でも多くの若者が日本への留学熱に冒されていた。文明開化した日本に国の独立を奪われ、その植民地に転落してしまった朝鮮では、一九一九年三月一日の三・一独立運動の余儘がこの頃までくすぶり続け、新しい学問を身につけなくては侵略者日本に太刀打ちできない、日本に勝たなくては国と民族の独立はありえないという気持ちが若者やその親たちの日本への留学熱を掻き立てたのである。いやそれだけではない。三・一独立運動をきっかけに燃え広がった、民族の独立を求めて高ぶる朝鮮人の感情を鎮めるために、植民地朝鮮への帝国日本の統治政策がそれまでの銃剣による武断統治からいわゆる文化政治に切り替えられた結果、新聞や雑誌の発行が許され、結社の自由が保障されるなど、朝鮮人の基本的な権利がたとえ見せかけにせよ認められたことによって、マスコミや社会運動のさまざまの分野で日本での留学生活を終えて帰国した若き知識人らが、中心的な位置を占めるようになったのである。こうした現象がいやがうえにも若者たちを刺激して、日本への留学に駆り立てたことは言うまでもない。彼らはたとえ苦学をするとも日本へ渡航したいと望み、その親たちもまた、父祖伝来の田畑を売ってでもわが子の希望を叶え、立身させたいと願ったものであった。

 とはいえ、鄭承博が十歳前後の幼さで「留学」するために日本へ家出して来たというのは、やはり穏やかではない。恐らく、「富田川」の中で彼も触れているように、通常の学校教育に背を向けて子供らに千字文を教えたことが仇となり、書堂の訓導が逮捕されていった事件と、その訓導が叫びながら子供らに言い残したことが彼にはよほど刺激的だったのだろう。と同時に、時流とまではいかぬにしても、渡航してきた少年の彼が、おとなも顔負けするくらい置かれている状況を比較的に正確に把握し、敏感にそれに対応していることに示されるように、幼いながらも時代の動きへの彼の判断がそれに対する身の処し方として、理屈抜きで彼に渡航への道を選ばせたのだろう。「富田川」と「山と川」に見る限り、日本へ渡航してきてからの彼が、従姉妹の子守りをサボって病院へ担ぎ込んだ事件など、ときには気の緩みからドジを踏んだこともないのではないが、少年らしからぬ周囲への気配りの中で日常を過ごしていることからもそれはいえる。もとより彼のこうした気配りは、頼りにしてきた叔父が頼りにならない不安から来ている側面が大きく、その叔父に代わる保護者を求めたい心理が深層では働いていたと思われるものだが……。

 こうした見方が的を外していないことは、二川村の飯場の家主だった老婆や、村の有力者でもあった彼女を後ろ盾に編入学した小学校の女教師、三尾川村の飯場頭の妾たちが図らずも彼の求める保護者の役割を果たしていることからもいえる。それまでの郷里での儒教的なしつけが幸いして、年長者に対して折り目正しいうえ、いかにも農村の出身らしく働き者だった鄭承博の、学校へ通いたくてもそれが許されない、すこぶる同情に値する境遇は、彼の意思とは関わりなしに彼女らに保護者の役を演じさせたのである。

 周囲の人々への鄭承博のこまやかな気配りは「富田川」時代ばかりでなく、自伝的な要素が幾分薄れ、それだけフィクションとしての性格が強まったといえる、第十五回農民文学賞を受賞した「裸の捕虜」に代表される、その後の「地点」「電灯が点いている」などの連作に描かれている時代、つまり一九四五年八月十五日の日本の敗戦、彼にとっては民族解放の日まで一貫して変わらない。それまで、どんなに心を傷つけられる事態に出くわそうと、一人として敵にまわしたり敵をつくったりしていないことがそれを裏書きしている。新潟県十日市の八路軍捕虜収容所を脱走して名古屋経由で大阪へ舞い戻り、新聞配達所に住み込んでから大空襲の日を迎えるまでの彼の主人公「承徳」の行動は、まさしくそういえるものであった。アメリカ軍の大阪大空襲を予告したビラを見て口実を設け、店と新聞配達の仕事を彼に押しつけて田舎へ避難して行こうとする、主人夫婦のあざとい遺り口を見透かしていながらも「承徳」は、騙されて見せるだけで決して言い争ったり腹を立てたりしてはいないのである。

 しかしこれは、植民地朝鮮の出身であるとか後ろ暗い逃亡者であるとかの理由で、「承徳」すなわち鄭承博が日本人に対して卑屈になっていたからではない。連作「裸の捕虜」の中で、その場の表現として適切とは思えないくらいしばしば「恥かしい」という言葉を用いて、彼は自分の気恥かしさを表わしている。この気恥かしさは、彼の自意識の強さと表裏をなしているといえるからである。言葉を換えていえば、幼くして他郷へ渡航してきた彼は、長年にわたっておとなたちの世界で揉まれながら世間というものを知り、その中で生きつつもおのれを見失わないしなやかな感性を養ってきたのである。大阪水平杜の指導者の一人だった栗須七郎との出会いが彼の人生において大きな意味を持つのは、そうした彼の自意識に方向づけしたことだろう。連作「裸の捕虜」の中で主人公「承徳」が戦災者や弱者、貧しい人々に示している民族的な立場を超えたおおらかな優しさは、彼自身の貧しい生い立ちや辛い人生体験と併せて、栗須七郎の薫陶によるところが大きかったはずだから。

 栗須七郎の薫陶に負うところはそれにとどまらない。敗戦後の日本で民族的に解放された「治外法権」的な立場を利用すれば、鄭承博にも一獲千金とまでは行かぬにせよ金儲けに奔走することは出来たはずである。また、一時は洲本の夜の帝王と噂されたくらいの夜遊びに耽り、長唄や日本画の稽古にまで励んだと伝えられるから、その程度の才覚や抜かりなさ、そしてしたたかさなどは逃亡の日々をくぐり抜ける過程で身に着けていたと見てよいだろう。にもかかわらず、やがて彼は俳句に始まり川柳に移り、さらに詩や小説に手を染めるなど、いわば文学の世界へと人生の方向を大きく転じているからである。つまり、少年の身で勉学を志して家出までして日本へ「留学」してきた彼の上昇志向は、三十代半ばを越える年齢に達してから物質的なものではなく、ひたむきに文化的、さらには文学的つまり精神的な完結をめざすようになったのである。その後の彼の人生はまさしく文学への一途さ、頑なさといったものさえ感じさせずにはおかない。

 概して逃亡者は、世間から怪しまれたりうさん臭い目で見られたりしないために、いつどんなときでも格好よく振る舞わなくてはならないものである。鄭承博の人生が集約して投影されている連作「裸の捕虜」は言うまでもなく、逃亡者としての彼の美意識、ダンディズムを反映させずにはおかない。その彼のダンディズムと、何よりも人生体験の重さとが文章の拙さや小説としての完成度をカバーしている。

    (アン・ウシク 文芸評論家)

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  ●鄭承博を語る    鄭承博の文学的位置    林浩治


 鄭承博の「裸の捕虜」が第十五回農民文学賞を受賞したのは、一九七一年のことで、『農民文学』に掲載された後、芥川賞候補となって翌七二年『文学界』に転載された。更に、『文学界』掲載の「地点」「電灯がついている」を併せて文藝春秋から『裸の捕虜』が発行されるのは七三年二月のことだ。このころ在日朝鮮人文学は盛況だった。金鶴泳が「凍える口」で文藝賞を受けるのは一九六六年、金石範の『鴉の死』が新興書房から発行されるのは六七年(同書は七一年に講談社から再刊される)、李恢成の「またふたたびの道」が群像新人文学賞を受賞するのは六九年、「砧をうつ女」が第六十六回芥川賞を受賞するのは七二年である。

 更に、七〇年から七二年にかけて十二冊発行した季刊誌『人間として』には金石範・高史明・金泰生らが執筆している。それに敗戦後すぐに『民主朝鮮』や『新日本文学』を舞台に活動を始めた金達寿の活動も継続して旺盛である。一九七〇年前後は在日朝鮮人文学の繁盛期なのだ。彼らは、古井由吉・後藤明生らが評論家の小田切秀雄によって「内向の世代」と評されたのと反対に、社会状況に面と向かっている、ということで注目された。

 これらの中で、鄭承博は金泰生・金石範らと同世代で、金達寿らより下、季恢成・金鶴泳らより年長にあたる。鄭承博の渡日は一九三三年頃で十一歳くらいだった。幼くして単身の渡日は、済州島出身の作家金泰生と似ている。金泰生は鄭承博よりも早く、一九三〇年、五歳の時に両親から離れて一人海を渡っている。鄭承博が若き日の自分の姿を投影したと思われる小説「裸の捕虜」の主人公承徳は、大正十二年生まれであるため、十三年生まれから適用された徴兵制度から免れたと書かれているが、金泰生は一年違いで徴兵にひっかかり、危うく戦地に送られるところだった。

 金泰生は大阪での幼い生活のなかから、父と母に対する別々の深い思いを描いていった。金泰生は日本の敗戦にむかう厳しい時勢のなかにあっても、勉強好き、読書好きでカメラマンになりたいと夢みるような少年だった。それにくらべ、鄭承博は戦時下日本における労働と逃亡の生活を描いた。鄭承博は逞しい生活力をもって時勢に対抗したのだ。

 在日朝鮮人作家の多くが、縦の系列と横の複雑な関係の中にある。戦前、張赫宙や金史良を育てた雑誌『文藝首都』は、戦後は金泰生や金石範の作品発表の場となったし、金達寿も金史良との交友によって戦前からこの雑誌と関係していた。日本帝国主義の敗北によって自由な息吹を与えられた朝鮮人の書き手の中から、金達寿や許南麒が頭角を現わし、その後に続く書き手の殆どが彼らの持つ強い民族意識に魅かれていった。金史良一金達寿一金石範一李恢成と繋がる系譜に金泰生や梁石日、詩人の金時鐘から高史明・朴重鎬に至るまで枝分かれしている。ところが、鄭承博は独自だ。

 鄭承博は、金達寿や許南麒らのように、日本帝国主義に対する抵抗運動を描いたり、金石範らのように戦後の反米闘争を描いたりはしたかったし、また在日の差別や困難を糾弾する作品もものにしなかった。その点金泰生と似ている。名もない平凡な人々を描いた点で両者の特質は似ているのだが、金泰生の作品が繊細なリアリズム文学であるのに比して、鄭承博の作品は骨太でドラマチックである。それは、鄭承博自身の体験の荒々しさからきているかのように思われる。戦時中の買い出しの光景は金泰生も描いているが、徴用と「脱走」、そして逮捕、八路軍の捕虜たちとの懲役暮らし、そして便所からの脱走、逃亡の日々という経験は劇的である。この内容を鄭承博は淡々と描いている。当時の在日朝鮮人の生の一典型であるためなのだろうか。作りごとの大仰さは感じられない。

 そして、鄭承博の作品に登場する人物には日本人が多い。〈日本へ来てからというものは、どういうわけか全く本国人とは縁がなく、日本人のなかでばかり暮らしてきた。だから解放になったときにはもう、祖国の言葉さえも喋れなくなっていた〉(「解放直後に出会った同胞」『季刊青丘』五号)。在日と言っても朝鮮人社会で育った同世代の金泰生や金石範と違い、鄭承博は水平運動の指導者の下で学んだり、軍需工場の食糧調達係をやらされるなど、主に日本人社会の中で生きて来た。そのせいか「民族」に対するある種の憧慣も作品からは窺えない。故郷に対する思いも、金泰生らに比べると冷静に感じられる。

〈私にはすでに帰る古里もなければ勇気もなかった。そのままずるずるべったりに在日生活を続けているが、ほんとうにこれでよかったのかどうかは分からない〉(同前)。

 これは在日朝鮮人一世の眩きである。在日の歴史の非凡さを、鄭承博は代表している。心の奥底の蟠りと在日の現実とを鄭承博の文学は表わしているのだ。

    (はやし・こうじ 文芸評論家)

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    「生活語」としての日本語    川村 湊


   1

 鄭承博の『松葉売り』を読んで、私は二篇の詩を思い浮かべた。一篇は人口に膾炙した佐藤春夫の「こぽれ松葉をかきあつめ をとめのごとききみなりき こぼれ松葉に火をはなち わらべのごときわれなりき」という詩句である。松葉はよく燃えるもので、焚き火の燃料になるということを佐藤春夫の詩で教えられたのだが、同じ子供の遊びのような"松葉掻き"であっても、一方はそれが遊びであるというのと、一方ではそれを集めて売るのを商売にしなければならないというのでは、同じようなことでもかなり違うものと思わずにはいられない。

 もう一篇は、韓国の詩人、文柄蘭のこんな詩である。

  わたしが九歳だったとき

  二十里も歩いて通った小学校

  わたしは国語の時間に

  わたしたちの言葉ではない日本語

  わたしたちの先祖ではない天皇を習った

  神杜参拝に行った日

  新作路の上に どんな風が吹いていたか

  日本語を習って出世するんだと

  日本人にくっついてうまく生きるんだと

  だれがわたしの耳にささやいたのか

  先祖も祖国も知らなかったわたしたち

  言葉も文字も名前までも みんな奪われたわたしたち

  ヒノマルの前で

  聞きとれない日本語の前で

  チョーセンジンのせがれは いつもキタナイままだった

   (後略)

 文柄蘭の詩集『地の恋歌』(一九八一年)に収められた「植民地の国語の時間」という詩の一節である。一九三五年生まれの文柄蘭に対し、鄭承博は一九二三年生まれだから、十二歳の年齢差がある。今の日本の教育制度でいえば、文氏が小学校一年生の入学時には、鄭氏は高校を卒業して大学受験というほどの差なのである。鄭承博の自伝的小説としては時代がもっとも早い『松葉売り』は、一九三〇年代の初めの頃のことで、作者がまだ十代の頃の話である。『松葉売り』などの一連の生まれ故郷(安東近郊の村里)での物語に続く、日本へ渡航してからの話である『富田川』(未完の長篇小説、著作集第一巻に収録)の書き出しには、「昭和七年八月二十日の夕刻、紀勢線田辺駅に、一人のみすぼらしい少年が降りた」とあり、この「ボー」と呼ばれる少年が、鄭承博少年そのものだったとしたら、彼が故郷の村を出奔したのは一九三二年夏ということであり、『松葉売り』は一九三一年〜一九三二年の頃の話ということになる。

 一九一九(大正八)年に斎藤実が朝鮮総督に就任して、山梨半蔵総督の二年間をはさんで再び斎藤総督となって一九三一(昭和六年に辞任するまでを、いわゆる朝鮮総督府の「文化政治」の時代と呼ぶ。それ以前の武断政治が三・一独立運動を勃発させたことを反省して、ムチだけではなく、アメも活用することが植民地統治の一つの方策であることに、日本の帝国主義的な権力者たちはようやく気が付いたのである。そういう意味では、日本の朝鮮支配も「文化政治」の時代は、まだ比較的精神的な余裕があるものだったといえる。「満州事変」の勃発と、対中国との十四年戦争の深まりと、その泥沼化と、一九四一年十二月の対米英の太平洋戦争の開始と、その戦況の悪化とは、まだかろうじ残っていた日本人たちの精神的余裕まったく失わせ、植民地での政策を「文化政治」どころか、なりふりかまわない圧政であり、苛酷な収奪の強権政治へとエスカレートさせていったのである。

 創氏改名、国語(日本語)常用、朝鮮語の禁圧、皇国臣民化の強要、強制微用といった、半世紀後の現在までも朝鮮民族を憤激させている民族精神や民族文化への弾圧の政策は、まさに『松葉売り』の物語が始まる頃から強化され始めたといえるのである。


 そういう意味では、『松葉売り』が、主人公のスンドギの父親が密造酒製造ということで、警察署に引っ張られ、留置されるという事件から始まることは象徴的である。もちろん、それまでも密造酒製造が犯罪として取り締まられないわけではなかったが、作中にもあるように「貧しい山村」の人々が「大昔から、家庭で造って祭祀に使ったり飲んだりしてきた酒」を、「サーベルを吊った何人かの警官を先頭に、洋服姿の男たちが大勢、一列になって」やってくるほど大仰な摘発を行なうほどのことだとは思われていなかったのである。

 このドブロクの摘発には、ウラの事情(罠)があったことを小説は明らかにしている。すなわち、ドブロクやヤミ煙草栽培で摘発され、拘引された家長を貰い下げるには、多額の罰金、あるいは仲介金を用意せねばならず、警察官の摘発の後を受けて村に入った高利貸しや日本人地主たちは、返すあてのない家族に土地を担保にその金を貸し、やがてはその土地を取り上げてしまおうという算段だったのである。田畑や山を取り上げられた朝鮮人農民は、役所から奨励された「満州」の開拓団となって移住するという段取りで、日本人の支配側にとっては、密造酒や密造作物の取り締まりと、罰金(仲介金)収入と、日本人の朝鮮への移住、朝鮮人の「満州」移住と、"一石三鳥"(四鳥?)にもなる勘定だったのである。

 もちろん、こうした官民一体となり、日本人と一部の朝鮮人とが結託した悪辣な圧政は、日本の軍国主義、帝国主義の膨張と強化、戦争の拡大と植民地主義的勢力の拡張という時代的な展開、転換と共同歩調を取ったものにほかならない。いってみれば、それまではまだ牧歌的な朝鮮の山村生活を送っていた主人公(スンドギ)の生活のなかに、「日本」という帝国主義、軍国主義、植民地主義の代名詞とでもいうべき強権者が土足で闖入してきたのである。

 だが、ここに一つの背理的矛盾がある。主入公のスンドギにとって、「日本」はそうした侵略者、圧政者であると同時に、「近代」の文化や教育、豊かな生活を象徴するプラスの記号でもあったということだ。「朝鮮語排斥、日本語を使おう」といったスローガンによって浸透させられる日本語常用のキャンペーン。役所や学校では、これ見よがしに「日本語」を奨励し、朝鮮語をおとしめるプロパガンダを行なっている。まさに「日本語万能時代」なのである。向学心と立身出世の青雲の志を持った少年に、そのアンビシャス(大志=野心)を叶えさせる必要条件として「日本語」は、いわば憧れの対象としてあったといっていいのである。文柄蘭の詩にあったように「日本語を習って出仕するんだ」という立身出世の夢は、向上心に富んだ植民地の少年にとっては、善悪の判断以前に唯一の希望の道としてあったのである。


 植民地とされた朝鮮にとって「日本語」とは何であったのか。もちろん、それは民族語としての朝鮮語を排斥しようとする侵略言語であり、帝国主義的な言語政策に裏打ちされた宗主国言語にほかならない。しかし、現在において別段、英米の植民地となっているわけではない日本や韓国においても、英語の能力が立身出世のための必要条件であるように、言語には言語としての、政治や経済とは別の次元での言語同士の角逐や抗争、その優劣関係や上下関係が現実的に存在しているのである。貧しい「外地」としての朝鮮と、豊かな「内地」としての日本。もちろん"内鮮一体"という言葉は、植民地支配を糊塗しようとする言い方であって、朝鮮人と日本人の間には歴然とした差別があったことはいうまでもない。

「内地人」(日本人)が朝鮮に渡ってくるには、もちろん旅券も特別な証明書、許可証もなしに自由に行き来できたのだが、朝鮮人が日本へ渡ろうと思ったら「渡航証明書」なるものが必要だった。スンドギが苦労したように、その渡航証明書を貰うためには、しっかりとした身元保証が必要だったし、また現実的に日本語がある程度できなければたらないのは当然だった(「内地人」はむろん朝鮮に渡航するのに、朝鮮語能力が要求されることはなかった)。日本の帝国主義は、一方では炭坑労働者や土木建築労働者として強制的に労働者を連行してくるような動員体制を画策しながら、一方では証明書発行による実質的な「渡航制限」を設けるという、明らかにダブル・スタンダード(二重基準)を使い分けていたのである。

『松葉売り』の主人公スンドギが、いろいろと苦労しながら日本語を勉強するのも、具体的にいえば、この「渡航証明書」を貰って叔父のいる日本へ行くという彼の希望を実現させるための必要条件だった。それは現実の朝鮮社会の貧しさや後進性からの脱却のためのプロセスであり、父親を拘留され、松葉売りをしてわずかにその日限り程度の現金収入を得るというスンドギの、八方塞がりの困難な生活からの脱出のための、唯一といってよい手段だったのである。嫌悪と憧憬の対象としての「日本」および「日本語」。一定年代以上の朝鮮人に見られるこうしたダブル・バインド(二重拘束)は、日本と朝鮮との錯綜した近代史にその根抵を持ったものなのである。


   2

 鄭承博の『松葉売り』は、彼の作品史においてもその原点たりうるものである。それは、むろん彼自身予想しなかったことだろうが、彼のほとんど終生といっていいほどの「日本」との関わりの原点がそこに示されているからである。松葉をチゲ(背負いこ)に担ぎ、「マツバハイリマセンカ、マツバ。ヨクモエルマツバヲカッテクダサイ」という彼の日本語は、「ワレワレハ、コウコクシンミンナリ」という強制された日本語とはニュアンスを異にした生活語としての日本語にほかならない。

 朝鮮の各地で検問所を設け、通行人に「我々は皇国臣民たり」という『皇国臣民の辞』を唱えさせていた日本の皇民化政策、あるいは皇民化教育とは別な次元に「マツバハイリマセンカ、マツバ。ヨクモエルマツバヲカッテクダサイ」という鄭承博の"日本語"はあったといってよい。つまり、侵略言語、朝鮮人の母語としての朝鮮語を圧殺する言語としての日本語とは異なった次元において、生活語としての日本語があったということである。もちろん、それは強制された宗主国言語としての日本語と、内実としてことさら違ったところはないといえるかもしれない。朝鮮に住む日本人が一様に「日本人」として威圧的に振る舞ったように。

 だが、スンドギに「マツバハイリマセンカ」という日本語を教えてくれた「日本アジュモニ」のように、着物に下駄ばきという典型的な日本人スタイルでありながら、日本人住宅街から離れたところに住み、達者な朝鮮語を使う、特異ともいえる日本人もいたのである。彼は「日本アジュモニ」からその日本語を習い、日本人町へ松葉を売りに行く。スンドギにとって日本人はお得意さんであり、彼の日本語は重要な商売上の技術にほかならないのである。『松葉売り』のなかにこんな一節がある。


 スンドギがここで習った以外の日本語を知っているのは、たったこれだけである。しかしこれさえ言えたら、日本人町へ松葉を売りに行く分には充分だ。これも町外れで一人暮らしの、朝鮮語が達者な、日本人おばさんから教わった。それ以来これだけで通している。日本人町へ出入りをしていると、いかにも日本語を知っているようにも思われているが、その実、あの町には朝鮮人召使いたちが大勢いて、物売りが行くと、いつも彼らに、汚らしい下品な朝鮮語で呼びつけられるだけだ。日本語はめったと聞かれず、朝鮮語の悪口だけが蔓延しているような町である。やはり塾へでも来ない限り、仮名文字の書き方すらも、覚えることは出来ないのだと思いながら、その日の授業を終えた。


 スンドギの拙い日本語に対して、返ってくるのは"汚らしい下品な朝鮮語"である。日本語と朝鮮語との間で、絶対的な優劣関係があるわけではない。植民地時代のように「日本語」が朝鮮語より優位にあるわけではなく、また解放後にその反動として語られたように日本語が帝国主義的であったり、劣悪であるわけではない(解放後、韓国では日本語に"汚染"された「国語」を、"醇化"させるための「国語醇化」の運動が行なわれた)。朝鮮語にももちろん、"汚らしい下品な"言葉、言い方があり、日本語にも綺麗で上品な言葉や言葉使いがあることはいうまでもない(その反対も然りである)。日本語にも帝国主義的、侵略主義的ではない「生活言語」があるのであって、日本の植民地主義やその政策の責めを、「日本語」という言語自体に負わせることは不当なのである。

 解放以後の世代の韓国の代表的な小説家、崔仁浩は「なぜ、韓国人は日本人が嬢いなのか?」(別冊宝島『新しい韓国を知る本』一九八七年)という文章のなかで「父と母は、子どもたちには聞かせてならない話なんかを、日本語でやっていました」と言い、その「聞きとれない不思議な未知の言葉をあやつる父と母の表情は、にわかに陰険かつ淫らとなり、どこかの色街でひそかに花代をやり取りする女郎屋の主人のように、何か怪しげ陰謀が行き来しはじめます」と書いている。

 もちろん、この「陰険」さや「淫ら」さ「怪しげな陰謀」めいた印象は、日本語そのもののせいではない。汚らしい下品な"朝鮮語があるように、"陰険で淫らな"日本語もあるが、そうした印象を「日本語」全体、「日本人」や「日本文化」そのものへと拡大してゆく崔仁浩の文章は不当なものであり、日本語に淫乱なものを感じるという彼の特殊な個人的感覚を、無自覚的に拡張したものにほかならない。言葉はそれを使う人によって「陰険」にもなれば、「汚らしく」もなり、「淫ら」にもなれば、「下品」にもなる。それは日本語においても朝鮮語においてもそうであることは、言語に関わる際の原則である。

『松葉売り』のスンドギの「日本語」が卑屈でもなく、売国的や反民族的なものでもないというのは、それが「生活者」の言語であり、「生活語」としての健全さを保持しているからにほかならないだろう。「ワレワレハ、コゥコクシンミンナリ」という言葉に代表される侵略言語としての日本語は、初等教育から高等教育を通じて、朝鮮人たちの生活の現場から遊離したところで法律言語や政治言語など、支配者の言語として"内鮮一体"の朝鮮半島において君臨した。しかし、そうした日本語以外に「生活」に密着した日本語があって、それは朝鮮語や中国語とも同等であり、支配―被支配関係や優劣関係とも無縁な「生活語」として普遍的な言語たりえるのである。侵略言語としての日本語、朝鮮人にとっての「奴隷の言語」である"植民地日本語"を教えこもうという日本の帝国主義体制にとって、そうした「生活語」としての日本語は、決して望ましいものではなかった。だから、彼らは自主的な朝鮮人たちの日本語学習を弾圧し、それを自分たちの監視下に置かなければ安心しなかったのである(そうした事態は『松葉売り』以外の『父と私』や『奪われたことば』など、本巻収録の他の作品にも描かれている)。


 鄭承博という作家は、したたかな「生活者」である。彼の文学的原点ともいえる朝鮮時代を描いた『松葉売り』、それに続く日本時代としての『富田川』『山と川』『裸の捕虜』『電灯が点いている』などの一連の自伝的小説を読めば、彼が山や川などの自然の世界から、野生や天然の食物を見つけ出してくる天才的な生活技術を身につけていて、空腹と貧困のなかでもしたたかに"生きる"ことに才覚を働かせていることがわかる。それはフランスの文化人類学者のレヴィ=ストロースが言うところのブリコラージュ(器用仕事)という範疇に入るもののように思える。ありあわせの材料で器用に大工仕事を仕上げてしまう日曜大工。専門の職人とは違って、彼は道具や材料にそれほどこだわらない。手近にある材料を使い、間に合わせのような道具によって、必要なものを作り上げてしまうこと。それは「遊び」と「仕事」との不可分な境界領域のものであり、彼はまるで楽しんででもいるかのように、困難な仕事をなしとげてしまうのである。

 鄭承博の小説の世界が、絶対的な飢餓や強制的な労働体験といった悲惨で、絶望的な状況を描きながら、そこに温かい人間性と仄かなユーモラスなものさえ漂っているのは、彼がブリコラージュ的な非職業的な器用人であるからだ。それは文学においても、いい意味でのアマチュアリズムとして働いている。そして、"生きる"ことにおいてさえも、彼は余裕と器用さをもってそれをまるで"遊び"のようなものに変えてしまうのだ。むろんそれが不真面目さや不謹慎さ、屈従や卑屈さと別物であることはいうまでもない。

「牧師先生、学校は閉鎖です。洪先生は憲兵に連れて行かれました。こんどは朝鮮史話など知らない日本語先生を、一日も早く探して下さい」と、キリスト教会日本語学校で日本語を学んでいた生徒たちは黒板に書いた(『父と私』)。朝鮮史話を生徒たちに語った洪先生が、民族教育、反日教育をしたという嫌疑で憲兵に連行されてしまった時、残った生徒たちは留守をしていた牧師の校長先生にこう伝言したのである。「朝鮮史話など知らない日本語先生を、百も早く探して下さい」というのは、一種のブラック・ユーモアとも言えるものだが、ここに彼の文学の根にある「生活者の言語」が露呈していると私には思われてならないのである。

 "生きる"ことが絶対的な善であり、"食べる"ことが人間の行動の前提である。鄭承博の小説に表わされる思想を簡単にまとめればこうなるだろうか。これは卑俗な現実主義だけを意味するものではない。すべての観念主義や教条主義を笑うものであり、専門的な職人倫理や、融通の効か女い一徹さを尊ぶばかりに、肝心の、"生きる"ことを忘れてしまう精神の偏狭さについての批判なのである。日本語も朝鮮語も、言語という一つの道具にしか過ぎない。道具は"生きる"ために奉仕するものではあっても、そのために"生きる"のではない。奪われた母語を回復しようというのは、当然のことであり、実現されなければならないことだが、だからといって言葉(特に母語)を絶対視することは、また別な意味での陥穽に落ち込むことにほかならない。

 鄭承博の言葉に対する感覚はしなやかで、したたかだ。"松葉"を売りながら、彼は、"言葉"という価値を手に入れた。それが「日本語」という言葉だったとしても、あえてそれをおとしめる必要が彼にあっただろうか。"言葉売り"の少年がみごとにその長年の苦労を購った。それがこの一巻に収められた鄭承博の「日本語」による文学世界なのである。

    (かわむら・みなと 文芸評論家)

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    〈はなし〉という原郷    磯貝治良


 鄭承博さんの小説を読むと、つい見すごしがちなことであるが、ある特徴に気づく。どの作品にも、淡淡とした箪致ではあるが、〈在日〉一世世代の過酷な体験が描かれていて、その意味では在日朝鮮人文学のパラダイムからはずれていない。むしろ、その典型といっていい。境涯ゆえに、主人公や物語がたえず難関に遭遇するという状況(シチュエーション)も、在日朝鮮人文学に共通している。

 ところが、過酷な境遇がさほど大仰な苦悩をともなわずに描かれてしまうしたたかさもさることながら、難関はいつもあざやかにのりこえられてしまう。あたかも"人生の名手"の手練にかかったように。鄭さんの小説(にかぎらず詩やエッセイ)の特徴の一つが、それである。

 たとえば、代表作『裸の捕虜』の逃走の場面などがよい例であるが、見すごしがちな細部の設定にも随所にみられる。渡日後数年の作者の分身である朝鮮人飯場のめし炊き少年を描いた一連の作品では、急性肺炎に罹った人夫をリヤカーで病院にはこび、いざ医者への支払いという段になって少年が預かってきた手持ちでは三円足りない。困りはてていると意外にも病気の人夫がへそくりの十円札をポンと出してくれる。少年が空腹に耐えかねていれば、看護婦たちが丼めしを食べさせてくれる。村を歩いていると、話しかけたのがきっかけで農夫からさつま芋をもらう。

 この巻に収められた作品からも、アトランダムに拾いだすことができる。「壁の落書」では、盗みの疑いをかけられてぶち込まれた留置場から、嫌疑ははれないままに始末書をとられるだけで釈放される。「夜明け」では、アメリカ占領軍管理の旧軍用飛行機工場から見事に小型高性能ポンプを盗みだして、窮地をまぬがれる。「丸木橋」では、ダイナマイトによる鮎の盗獲が発覚して自首をかって出た主人公の少年を、もと華族の家に奉公していたという独居ぐらしのおばさんが釈放させてくれる。「叫び」では、屋台店のおばさんやホテルの隠居、親切な仲居さんなどが"杖"となって、盲人である主人公の難関を解決してくれる――といった具合である。

 エーッ、ほんとうですか、鄭さん。話ができすぎじゃないですか――読者はつい、そう言いたくなる。たしかに、「近代」の概念である「文学」の読みからすれば、難関や苦境がのりこえられるためには「必然性」が要求される。その点、鄭さんの作品には往往にして、便宜的とか、小説的稚拙さ・粗雑さと見られかねない展開がある。それが原因で嘘っぽいととられかねない。それにたいして"出会いの名手"とか"暮らしの名手"とか、人柄といった、作者の特性を持ち出して弁護しても、鄭承博の表現を語ることにはならない。

 鄭さんの表現の特質は、民譚(みんたん)なのだ。文字言語の世界で表現された〈語り〉あるいは〈はなし〉なのだ。民譚というのを砕いて言えば、民の語り、庶民の苦労ばなし、民衆のほらばなし、ということになる。苦境を淡淡と語ったり、辛酸の体験を時におかしく語ったり、難関をひょいっとのりこえたりするのは、民譚の特質であり、勁(つよ)さである。鄭さんの作品展開の"飛躍"や外連(がいれん)のなさは、それだろう。

 民衆語り=民譚の手法は「小説」というより〈はなし〉であって、表現の原郷とも言うべきものである。それは、「近代文学」が「小説」とか「詩」とか「批評」というジャンルによって「文学」を序列化したことからの白由宣言とも言える。


 鄭承博さんの「文学」を在日朝鮮人の文学地図のなかに置いてみると、特異な位置を占めていることがわかる。少年期の渡日から戦争をへて戦後(解放後)にいたる凄絶な他郷暮らしは、在日朝鮮人史の典型を示していて、それを題材にする作品はまぎれもなく典型的な在日朝鮮人文学なのだが、文学的性質において特異なのである。

 在日朝鮮人文学の特質については、さまざまに言うことができる。一九八○年代以降、在日朝鮮人文学は〈在日〉文学と呼ぶのがふさわしいほどに多様な作家を生みだし、様相もずいぶん変じはじめているが、第一世代とそれを継承する第二世代の"伝統"をみると、次のように言えるのではないだろうか。

 在日朝鮮人は存在そのものが政治的である――という表言があったように、巨大な歴史を描くにしろ、個人的体験を描くにしろ、祖国の現実とか、民族の命運とか、他郷暮らしの葛藤といった様相が、政治のるつぼとなって、在日朝鮮人文学にはうずまいていた。いっけん政治とは無縁に生きたかにみえる無告の人びとの在日史にも〈世界〉がはらみこまれて、政治的であった。

 鄭さんの作品には、この政治のるつぼがほとんど描かれない。たしかに、日本の植民地支配と戦争という、もっとも集約的な政治のるつぼのなかで生きたのが鄭承博であり、その体験なくして鄭さんの「文学」は生まれなかった。『裸の捕虜』の連作「地点」のなかで、憲兵に追われる日日の主人公が、戦争末期、アメリカ軍機の砲撃に日本じゅうが恐れおののいている状態を見て「これで(主人公と日本人は)互角になった」とおもう場面を読んで、丸谷才一が「一人の朝鮮人・鄭承博と日本帝国主義が互角になったということだ」と評したように、作者の生そのものが政治的であったと言える。空襲によって焼け出され、暮らしの方途を見失った人びとがさまよう世間を見て「日増しに同志が殖える」と記すのも同義だろう。

 しかし、政治が具体的な題材として書かれた作品は、皆無にひとしい。たとえば、第一世代の文学として民族運動が描かれないのは、奇異な感をあたえさえする。

 この巻に収められた「豚舎の番人」には、ドブロクの密造が手入れを受けたことに抗して、在日本朝鮮人連盟が税務署とたたかう模様がすこし描かれている。ところが、主人公の"闘争"にたいする感想は次のようなものだ。「終戦と同時にようやくそれ(「内鮮一体」とか「一億一心」とかの言葉)から解放されたと思うと、いつのまにかこんどはまた、闘争とかいう言葉を、毎日のように、聞かずにはいられない時代になった」。そのあとで主人公は、人間生きるためには闘争とかという言葉こそ本筋のものかもしれない、これも勉強のためだ、と思いなおして"闘争"の場へ出かけていくのだが、途中で、ふいっと税務署の庭を出て、海辺へ夕陽を見に行く。

 鄭さんの文学は、ことほどさように現実の政治やイデオロギーや民族運動から離れたところで成り立っている。その位置の特異性は、『玄海灘』などの金達寿や『火山島』などの金石範や『見果てぬ夢』などの李恢成によって、鮮明にされてきた在日朝鮮人文学の世界を想起すれば、あきらかだろう。

 その特異性は、民衆の語りの特質でもある。民衆が政治の言葉やイデオロギーを直載に語らないという意味だけではない。民衆語りは、「近代文学」というパラダイムのなかで「思想」を「小説的」に構築するという場所から自由になって、総体の代弁ではなく、わたしごとの〈はなし〉だからである。たとえば、金泰生は、無告のまま異郷の地で死んでいった無名の同胞の身世を多く書いて、語られなかった同時代史を証言するために小説を遺すのだ、と言ったが、鄭さんの表現は本質的にわたしごとの〈はなし〉なのである。いくら淡淡と語られても、なまみの自分と身世をぶっつける。それが、歴史や民族や人間の普遍につながるとしても、〈はなし〉という、表現の原質である。

 もちろん、わたしごとの〈はなし〉ゆえに、負の民衆性があらわれることは少なくない。戦時を描写した鄭さんの作品のなかに、アメリカ軍機を「敵機」「敵機」と呼ぶ言葉がしきりに出てくるが、これなど日本帝国主義によって掠奪されている主人公の民族的立場からすれば、奇異であり、文学的批評性の欠如ということになるだろう。著作集第二巻に収められた渡日前の少年主人公が、日本語への"あこがれ"によって同化政策になじまされていく心情が無批判的に捉えられていることなどにも、それが時代に強制された現実であったとしても、同じことが言える。在日朝鮮人文学のなかで鄭さんのそれが脇に置かれてきた理由の一つはそのあたりにあるのかな、と臆測するのは余談だが、ともかく、そういう負の民衆性をふくめて、民の〈はなし〉なのである。


 在日朝鮮人文学は知識人の文学である――という表言がある。
 もちろん、在日朝鮮人文学を代表する作家たちが〈在日〉社会における知識階級のひとたちだ、ということをさすのではない。いわんや、鄭承博さんが作品世界に描いているような体験を他のひとたちはしていない、と言うのでもない。第一世代の在日朝鮮人作家たちの生活史をみれば、日本へ渡ってきた少年時代から屑集め、風呂屋の釜炊き、土木現場の工事人夫、町工場の職工、行商といった"民衆的体験"をひとしなみ経ている。小説の知的構築力では他の追随をゆるさない金石範が若い頃、大阪・鶴橋のガード下で飲み屋の屋台を出していた話は、有名である。在日朝鮮人全体がそうであったように、作家たちも鄭さんと同様、"民衆的体験"を共通に持っている。

 わたしが言いたいのは、文学的性質(平たくいえば作風)において、「知」の介在によって創出される在日朝鮮人文学にあって、鄭さんの作品が特異な相をもっているということである。そのことは、民衆像の形象ということを例にとると、よくわかる。

 在日朝鮮人文学の特性の一つは、よく〈民衆〉を描きうる文学だ、ということである。このこと一つとっても、近代日本語文学のなかでの在日朝鮮人文学の存在性を主張しうるし、日本語で書かれながらも「民族文学」であることを主張しうる理由があるのだが、民衆の描き方には、当然のことながら、創造主である作者の「知」の視点が介在する。「知」という、意識化され、理念化され、思想化され、認識化された世界観が、〈民衆〉の像を造型する。造型にさいして「知」の判断が介在する。

 民衆像の代表的なものといえば、金達寿『朴達の裁判』のパクタリがある。これは小説に描かれた、有数の民衆像であろうが、アメリカ軍政下における民族の抵抗性という、知的意思が仮託されている。

 金石範は『鴉の死』や『万徳幽霊奇譚』で、でんぼう爺や、マンドギという、鄭承博の〈民衆〉など顔色をうしなうほどの原民衆像を形象する。しかし、そこには、でんぼう爺への愛憎とか、マンドギ奇譚という民衆伝承の形式をとって民族的抵抗を語ろうとする「知」の意思がある。マンドギの再生と変身には、作者の変革志向が仮託される。〈民衆〉は金石範文学の一つの中心であり、もう一つの中心である丁基俊(『鴉の死』)、李芳根(『火山島』)などの知識人像あるいは思想的人間像と対応して存在する。金石範文学は、二つの中心をもつ楕円の文学である。

 金泰生の、民衆の生と死の形象化には、表現者としての作者の視点が設定され、創作方法には存分に文学化の手続きがとられる。

 鄭承博さんの表現はといえぱ、「語るもの」と「語られるもの」とは不可分のまま、まるごと等身大の自己表出である。この巻には「作造」「叫び」「水平線」といった、めずらしく作者の分身を主人公としない作品が収められていて、鄭さんが「小説づくり」に色気を見せているのが面白いが、これらは例外に類する。

 鄭さんの〈語り〉は、そのまま語り手の〈はなし〉なのであって、創造主=作者の世界観などが仮託されるわけではない。「知」の想像力による構築と、在るがままの実在という、二つの中心をもった楕円の文学圏でもない。さらに、作者が他者の死生を証言するという位置にも立たない。話者が語る、話者の身世ばなしなのである。言いかえれば、中心点は一つの単質な円なのである。

 この単次元の伝承形式は、民の語りである〈はなし〉の特質でもあって、「近代文学」のパラダイムからははずれているということでもある。


「近代文学」――それは「戦後文学」「現代文学」へとおおよそのところで地つづきであろう。また「ポスト・モダニズム」や、それがはかなく潰(つい)えたあとの「ポスト・ポストモダン」といっても、「近代文学」のパラダイムからさほど自由になっているとはおもえないが、わたしがこれまで、「文学」あるいは「小説」の原郷としての〈はなし〉と対比させて語ってきたことは、「近代文学」の様相だった。「近代文学」の様相を雑ぱくにひと口で言ってしまえば、歴史・現実・社会・国家・戦争・革命・民族・家・他者・価値秩序・生活・恋愛関係といった「世界」と、人間=主人公との葛藤を内在的に描く、と言えるだろう。葛藤ゆえに中絶した『浮雲』以来、「外部」と「内部」、「世界」と「自我」の調和をもとめて格闘してきた、その言語表現が「近代文学」と言ってよいだろう。そうした「葛藤」をキィ・ワードに据えれば、在日朝鮮人文学もまた、「近代文学」の枠組みから自由ではない。

 たしかに、在日朝鮮人文学は、「近代」によって"帝国主義化"した日本語と、「文学」というヒエラルキー秩序のなかで、それとたたかいながら、独白の日本語文学をつくりだしてきた。しかし、すぐれた在日朝鮮人文学作品を一つ一つ見ればわかるように、「戦後文学」の軌跡を展開させた到達であるようにもおもえる。わたし自身、「戦後文学」という「近代小説」から自由なわけではないし、いまなお、それを信じている。したがって、鄭承博さんの表現の特質を強調するのは、在日朝鮮人文学のなかでそれが特異な位置にあることを解説しておきたいからにすぎない。

「葛藤」といえば、鄭承博さんの表現作法はおよそそれと縁がうすい。作品のなかに「葛藤」の場面がないわけではない。コトバとして記されはする。ところが次の瞬間、それはふっとどこへやら消えて、読者は過酷な物語を読んでいるのだという事実さえいっとき忘れてしまうふうに、〈はなし〉は展開する。「近代文学」を信じる読者は、難関を克服するドラマを期待して、肩すかしを食った気分にもなり、とまどう。「葛藤」を克服するにいたる必然のドラマも、心理のドラマ、も描かれない(心理描写がほとんど見られないのが、鄭さんの作品の特徴である)。〈はなし〉そのものが、すでに物語りだからである。

 難関がどのようにのりこえられるかについては、この文章の初めに書いたが、苦心譚をさも暮らしのひとこまのように淡淡と語ったり、逆に巧まずしておもしろおかしく語ってしまうのは、語りである〈はなし〉の特性だ。『裸の捕虜』の収容所の場面でさえどことなく「暮らし」のように描かれるし、その延長のようなタッチで脱走という行為も描かれる。少年期の飯場生活も、それが植民地支配による不遇の体験というよりも、濃密な暮らしの体験として話られる。「ゴミ捨て場」という作品では、ゴミ置き場はパチンコのヤミ換金という不法の場所ではなく、「店」なのである。

 鄭さんの作風は、「ハルベやアボヂの暗い話はもうたくさん」と"一世ばなし"に耳をかさない〈在日〉の若い世代や、歴史をカッコに入れて過去から目をそむけがちな日本人には、読んでもらうのに打ってつけかもしれない。

 鄭承博さんの作品には、ユーモアがある。しかし、それは小説的に仮構された「文学的」ユーモアとは異賃なものだ。語られる〈はなし〉自体にはらまれていて、それがおのずから表出されるものである。そのことは作中の出来事や設定(シチュエーション)、人物描写や語りの調子そのものなど、一読すれば随所に見られるが、さしづめ「ある就職」において主人公が日本へむかう連絡船の波止場で万引き団にスカウトされる落ちなど好例だろう。鄭さんの作風にみられるユーモアはしばしば、題材の重さを忘れさせる。

 ユーモアは、一般的に言えばヒューマンなものによって醸し出される。鄭さんの作品も例外ではない。しかし、鄭さんにおける「ヒューマンなもの」は、「近代」がイデオロギー的に装幀(そうてい)した「ヒューマニズム」とは似て非なるものだろう。「ヒューマニズム」のように正と邪、救済と支配といった両刃の剣になるものではなく、善悪の価値秩序以前の、もっと原初的なものであるようだ。「知」の作用によって整序されていないから、さきに負の民衆性としてふれたような"混乱"をもふくみこんでいる。

 ユーモアとかヒューマンなもの――それは、話者の意思である〈はなし〉を生のほうへ向けさせる。生のほうを向いている、というのが、鄭さんの作品の特徴である。鄭さんの作品から死の場面を見つけだすのは、ほとんど困難である。鄭さんが生きしのいできた歴史からすれば数多の死とめぐり合っただろうに、それが描かれないというのは驚嘆に値する。そのこと一つをとっても、鄭さんの表現世界が生の方向をむいていることの証左になる。それは民の語りである〈はなし〉は話者がすなわち話られる物語りなのだから話者が死んでいたら語られないはずだといった、表現様式のうえの問題ではない。空襲の直前になにげなく鎖をはなしてやった他家の犬が、その家が焼けたあとで生きていて主人公のまえに現われるといった、さりげない挿話に、生のほうを向く意思は呼吸のように息づいている。


 以上述べてきたあれこれの特質が、素朴という力がもつ勁(つよ)さをそなえた、鄭承博さんのリアリズムを生み出している。そのリアリズムは『蟹工船』の一場面の臨場感を想起させる「ポンプ屋」のような作品を可能にした。鄭さんの作風の特徴であって在日朝鮮人文学のなかでも際立っていることだが、生活の細部や労働そのものを描く「労働者文学」をつくりだした。そんなふうに限定しなくても、鄭さんの作品全体が素朴の力を感じさせるリアリズム(そこにフィクションやデフォルメがほどこされていないというのではない)であって、その「素朴の力」は、方法意識によって手段化されていない「原初の勁さ」である。

 鄭承博さんの小説だけでなく詩やエッセイには特に顕著に、鳥や魚や草花、海や夕陽や野山などの天然の情景が描かれ、ひととの出会い方、歴史の観方、ものの食べ方、暮らしとの折り合い方、こころのやりくり方法などが、テクニックを弄しないコトバで表現されている。「思想」によって装幀されない「原初のかたち」に、それは見合っている。

 怒りは表立って言挙げされないけれど、しばしば「近代化」への不快感として語られる"文明批評"も、命あるものがうばわれることへの抗議も、そして鄭さんが背負わされてきた理不尽な民族史への怒りも、ひとしなみ「原初のもの」を侵略することへの批判・抗議・怒りであろう。民族を侵した歴史の不条理をも内にかかえこみながら瓢瓢と語る〈はなし〉の深みには、「原初の勁さ」があるはずだ。

 鄭承博さんの「原質の勁さ」が、文=表現の原郷である〈はなし〉=民譚をささえて、そのパロールという小説の原郷が、文字言語(エクリチュール)の王国である「文学」から鄭さんを自由にしている。

    (いそがい・じろう 文芸評論家)

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